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このサービスは、@q_sukeさん作の Twitter三国志を参考にして作りました。 ありがとうございましたm(_ _)m


知ってるようで知らない!幕末史入門


「幕末」っていつ頃?

ペリーが率いる黒船艦隊の来航(1853年)から、江戸城が明治政府に明け渡される(1868年)までの間が、「幕末」である。

幕末の原点は、欧米諸国の植民地にならないための抵抗活動(攘夷運動)だった。 アヘン戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、 鎖国体制を維持し、欧米の植民地になることを回避するという「尊皇攘夷思想」が高まった。

しかし、薩摩・英国間や、長州と欧米列強の間で起こった武力衝突事件(薩英戦争・下関戦争)において 近代兵器を備えた欧米との圧倒的な力の差に直面し、攘夷論に対する批判が生じた。
そして、近代化や外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきという意見が台頭し、 これまで強硬に攘夷論を主張してきた薩摩藩・長州藩も、開国論へと転向していく。

その後、改革に保守的な態度をとる幕府への不満や、ナショナリズムの高まりから、薩摩・長州は「倒幕」を目指すようになる。


薩長同盟と、土佐藩の苦悩

※「龍馬伝」で言うと、結構終盤の話です。

当時の有力藩(雄藩)であった薩摩・長州は、 共に倒幕を目指していたが、過去のいきさつから対立していた。 これが、坂本龍馬の仲立ちにより、薩長同盟を締結。 この後、薩長は、同じく倒幕を目指す公家の岩倉具視と連携し、武力倒幕に向けて進んでいく。

当時貿易会社(海援隊)を運営していた龍馬は、武力倒幕を目指す薩摩藩から資金援助を受け、貿易や外国からの武器輸入などを行っていた。 そんな立場でありながら、龍馬は薩長と違う考えを持ち始める。国の弱体化を招く内戦(武力倒幕)は避けるべきではないか。 国が弱まれば、結局は欧米列強に食い物にされるだけではないかと。しかし、薩長はあくまでも幕府との戦いを目指していた。

一方、土佐藩は、薩摩と連携しているものの、幕府を倒さず、朝廷と幕府が連携して近代化すべき(公武合体)という方針だった。 関ヶ原の頃から、徳川への敵愾心を持ち続けている薩摩・長州と違い、土佐藩は、その成り立ち上、徳川に大きな恩があったからだ。(初代藩主 山内一豊が、徳川家康から土佐を与えられた)

この情勢下で、土佐藩の後藤象二郎は、同じ土佐出身の坂本龍馬から「大政奉還論」、つまり幕府から朝廷への「平和的政権移行」というアイデアを聞いて感銘を受ける。 後藤は、これなら土佐藩主の意向通り武力倒幕を回避でき、幕府に恩を売ることで土佐藩の存在感も増すだろう、と喜んだ。

ちなみに、大政奉還論は龍馬オリジナルではなく、横井小楠、大久保一翁、勝海舟らが元々提唱していた。 しかし、このタイミングで、戦争回避策として大政奉還を持ち出したことこそ、龍馬の白眉だと言えよう。


大政奉還と龍馬暗殺

近代化された薩長の軍事力は、幕府のそれを上回っていた。あとは、朝廷からの勅令(指示)さえあれば大義名分が立ち、薩長は、堂々と幕府を攻撃出来る。 そして、今まさに、薩長と、公家・岩倉具視らの工作によって、朝廷からの倒幕指令(討幕の密勅)が下されようとしていた。

その寸前、薩長を差し置き、後藤を中心とする土佐藩が動いた。龍馬の語った「大政奉還」を将軍・徳川慶喜に提案。 幕府が自ら「朝廷に政権を返上する」形を取れば、薩長による武力倒幕の大義名分を無効化でき、朝廷を支える存在として幕府を存続できると説明した。

勝てない戦を避け、幕府を維持したい徳川慶喜は、渡りに船とこれを受諾。大政奉還が成立した。 これにより、薩長同盟が目指していた武力倒幕は不可能となった。
この大政奉還の6日後、坂本龍馬は暗殺される。実行犯は、幕府側の「京都見廻組」との説が有力だが、その背景など未だ謎も多い。

一方、徳川慶喜は、表向き朝廷に政権を返還しつつも、幕府を政権の中心とし、幕府を維持しつつ、近代化を目指す心づもりであった。 これに対して龍馬は、貨幣鋳造所を江戸から京都に移すなど経済面から幕府の力を削ぎつつ、幕府にも薩長にも偏らない議会政治へと移行することを考えていた(船中八策)。 しかし、龍馬亡き後、薩長と岩倉具視らは、あくまでも幕府の打倒、政権奪取へと突き進む。


薩長のクーデター「王政復古の大号令」

そして薩長は、大政奉還の策を無効とするべく、クーデターを起こす。 今度は土佐藩を差し置き、15歳の明治天皇を擁した上で、軍を送って京都御所を制圧してしまったのだ。 そのまま混乱の中で、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令させられた。 これは、朝廷からの命令として、江戸幕府の完全解体を指示するものだった。

このクーデターにより、状況はこれまでと逆になり、幕府の解体が正式に決定された。 同時に、新たな政治体制(新政府)が樹立される。 土佐藩・山内容堂は強く抗議したが「では幕府側について、我々と戦うのか」と問われ、以後は薩長に従う姿勢を取った。


旧幕府軍の暴走、江戸開城

しかし、このクーデターは余りにも強引だった。徳川慶喜は、幕府解体指示の取り消しを強く求めた。 この勢いに押され、朝廷は、曖昧ながらも「幕藩体制の維持を認める」旨の告諭を出してしまう。 この時点で、薩長の大義名分が再び失われた。

焦った薩摩藩は、旧幕府のミスを誘うことで、再び大義名分を取り戻そうと動く。 浪人に指示し、江戸で放火などの乱暴狼藉を行わせ、幕府の強硬派を刺激したのだ。 これに載せられた幕府強硬派は、京都で「鳥羽・伏見の戦い」を起こしてしまう。

これは失敗だった。幕府側は、朝廷と交戦した形となり、「朝敵」の汚名を着せられてしまったのだ。この策略により、遂に薩長は、倒幕の大義名分を取り戻した。

徳川慶喜は、朝敵の汚名を知り、鳥羽伏見の劣勢を見ると、完全に意欲を失い、江戸に退却。新政府に抵抗する意志がないことを示した。

しかし、薩長の策謀を認めない旧幕臣も当然多かった。そして、旧幕府と新政府(薩長)による内戦「戊辰戦争」へと突入してしまう。これこそが、龍馬が避けたかった事態だった。

坂本龍馬の師匠であった勝海舟は、江戸を戦火から守るべく、旧幕府内の抗戦派に対して降伏を説得。さらに英国公使パークス経由で新政府側に圧力を掛けるなど、あらゆる手立てを使って西郷隆盛と交渉。 結果、江戸城は「無血開城」され、旧幕府は滅亡した。同時に150万人の江戸市民が戦火から救われた。


日本を二つに分けた内戦

一方、新政府を良しとしない会津藩ら31藩は「奥羽越列藩同盟」を結成。 当初は、戦闘回避・現体制の維持を目的として活動したものの、新政府側に嘆願が拒否され、激しい内戦が始まる。

列藩同盟の領土は蝦夷地(北海道)も足し合わせると日本の半分にもおよび、面積だけで見ると日本の南北戦争とも言える内戦だった。 東北各地(東北戦争)や函館(函館戦争)で激戦が繰り広げられるが、箱根戦争(1869年)を最後に抵抗が終わった。

なお、新政府側は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、 列藩同盟軍は主にドイツから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。 しかし各陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、 欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。


藩閥政治と民主化運動

これ以降の日本は、新政府の元、急激に近代化・工業化の道を走り始める。 しかし、この段階では「維新」はまだ終わっていない。
新政府の人材は当初、主に倒幕に貢献した薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)から供給されたが、 その中核は、ほぼ薩長出身者で占められていた(藩閥政治)

これに反発した土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信らは、明治政府から離脱。 英国的な憲法制定・議会の開設などを求める民主化運動「自由民権運動」を展開し、政党を結成する。

かつて坂本龍馬が「船中八策」において説いた憲法制定や議会政治は、 工業化とはうらはらに、長い時間をかけて徐々に成熟していくことになる。



明治維新の歴史的意義

「明治維新」とは、倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制への移行と、 それに伴う一連の改革・近代化をいう。
その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・ 流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、 日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。
鎖国を止めて開港し、外国との通商貿易を始めたことで 日本が世界的な資本主義市場経済と植民地主義に組み込まれ、 社会自体が劇的に変化していく発端でもあった。


※幕末の激動をイメージしつつ龍馬名言BOTのツイートを見ると、より味わい深いですよ。

※幕末史には様々な説がありますが、本稿はwikipediaの複数記事 から抜粋・加筆修正しています。ご意見は色々あろうかと思いますが、訂正指示はご容赦下さい。